簡潔に、「コンサルタントとはこういうもの」「プロデューサーとはこんな仕事」と言い切れればよいのですが、短いひとことで言い表わしにくい守備範囲の広さを持つのが、コンサルタントやプロデューサーという立場の特色でもあるのです。
以下のインタビュー記事は、私・志賀健が、とある経済団体が主催した異業種交流会にゲストとして招かれ、僭越ながら、数百人の企業経営者の方々の前で『経営コンサルタントの今』というテーマでお話しさせていただいた模様を書き起こしたものです。
読んでおわかりいただけるとおり、それは通常のような講演形式ではなく、主催者事務局の方がインタビュアーとなって、壇上で私に"公開インタビュー"をするというやや特殊な形で行なわれました。おもしろい試みでしたので、私は楽しくそのプランに参加させていただきました。
公開インタビューを書き起こしたこの読み物が、私・志賀が考えるコンサルタントという職業、プロデューサーという役目などについて、少しでも皆様にお伝えできるようなことになれば幸いです。
同時にそれは、私・志賀健のビジネスの進め方、あるいは、やや特異な私というキャラクターについてお伝えすることになるかもしれません。
「受験勉強に意味はあるか?」
アメリカの大学を目指した頃。
――志賀さんは、日本の大学ではなく、アメリカの大学を出られていますね。アメリカの大学を選ばれた理由は?
志賀 高校2年頃から受験勉強をするのがバカらしくなりましてね。「こんな元素記号のようなものを覚えて将来何の役に立つのか」という普遍的な疑問を持ったわけです(笑)。受験科目の主要5科目の中で、自分で「これは将来確実に役に立つだろう」と確信できたのは英語しかなかったので、じゃあ、その英語を見につけるためにアメリカの大学へ行こうと思うに至ったわけです。
――アメリカ東部のフィラデルフィアにあるテンプル大学だそうですね。
志賀 今でこそ「○○大学日本校」というのはけっこうありますが、私の大学受験当時の1986年頃にその制度を取っていたのは、少なかったと思います。
テンプル大学は、日本校とアメリカの本校で、優劣や扱いの差といったものはまったくありません。日本校で学べる専攻科目を選択した人は、日本校に通うだけで卒業できます。テンプルの本校に行くのにも、特に審査といったものはないのですが、専門度の高い大学課程に進むのにはテストを受ける必要がありました。合格率といいますか、日本校から入った日本の学生の約半数が、テストに受からず大学課程に進めなかったようです。そのテストに通って大学課程に進むまでに何年もかかる人もいますが、私は運良く、最初の半年で合格することができました。
――フィラデルフィアでの大学生活というのはどういう感じだったんですか?
志賀 住居は、日本から行った3人の同級生とルームシェアする形で小さなアパートを借りていました。20年以上前ですが、当時で一人月4~5万円くらいの家賃でしたから、日本の大学生のアパート暮らしより多少は安かったかもしれませんね。
――コンピューターを専攻されたそうですが、それは当初からの希望だったんですか?
志賀 いえ、最初は心理学がやりたくて、そういうコースを選んだんですが、これが語学的に非常にハードなコースでして(笑)。先生が生徒に講義をするのではなく、先生はテーマを与えるだけで、あとは生徒同士でディスカッションしながら進めて行くような授業形式だったんですよ。原書の資料を何冊も読んでおいて、それをベースに生徒が議論するんですが、いきなり専門用語を覚えて、そのうえそれで議論しなきゃいけないわけですからね。ろくに英語も聞けない、しゃべれない20歳の日本人にその授業は無理ですよね。それで心理学はあきらめて、英語の能力を問われない専攻にコース変更しようと一計を巡らせまして(笑)。そこで選んだのが、コンピューターのコースです。コンピューターなら、プログラム言語さえわかればある程度できますからね。
――86年頃といえば、日本ではやっと企業にワープロが出回り始めた頃で、パソコンはまだほとんど普及していなかったですよね。
志賀 そうですね。そこそこ大手の会社でも社に1台あるかないかという時代だったと思います。私ももちろん持っていなくて、コンピューターのコースに路線変更してから、慌てて現地で、今で言うパソコンを買いました。当時のお金で、日本円にして30万円くらいだったと思います。下宿代の安さのわりに大きな出費ですよね。でもこれがないと始まりませんからね。日本でアルバイトをして貯めたお金を、「エイヤッ!」という気持ちでパソコンにつぎ込みました(笑)。
――フィラデルフィアというのは、どんな雰囲気の町だったんですか?
志賀 フィラデルフィアは、当時、あまり治安のよくないところだったんですよ。今もそうなのかな?(笑)日没を過ぎると、テンプル大学のキャンパスにも、危険ということで、ほとんど誰も入れなくなるくらいですからね。ただ私が専攻していたコンピューターの場合は、電話回線で大学のホストコンピューターとつながることができましたから、共同生活をするアパートで勉強や作業ができたんですよ。パソコン通信の初期の頃ですね。
もちろん当時はまだ、<インターネット>というのは存在していませんでした。コンピューター専門誌で、「近い将来電話回線で世界が通じ合える『インターネット社会』というものが訪れるだろう」と熱く語られるような、そんな時代だったと思います。
そういう生活の中で、コンピュータープログラミング、英語でのディスカッションを通じて、<アメリカ型合理主義&論理主義>のようなものを学んだ、という気がしていますね。
"逆輸入"から始まる社会人生活。
そしてマイクロソフトという"黒船"へ。
――テンプル大学卒業後の就職は日本で、経済専門紙のグループ会社に入社されたそうですね。
志賀 その会社では、証券取引所が出す各社の株価を電光掲示板での数字に置き換えるためのプログラムを担当していました。今テレビなどで証券取引所を映すと壁のモニターに次々と数字が表示されますが、あれの初期型のもののプログラム作成というのが、私が担当する仕事でした。
プログラマー、システムエンジニアというのは、皆さんご存知のとおり、パソコンに向かってキーボードを叩くものですよね。そういう言い方が適切かどうかはわかりませんが、私の率直な感想としては「非常に"職人的"な仕事だな」と思っていましたね。
そういう職人的な仕事に興味や情熱もありましたから、若さや勢いも手伝って、当時は本当にメチャクチャに働きましたね。体力だけは自信がありましたからね(笑)。ほぼ毎日、午前3~4時まで仕事をして、タクシーで家に帰って、風呂に入って1時間ほど仮眠して、それでまた翌朝9時に出社して...というメチャクチャなスタイルで年間ほぼ通しました。「こいつの馬力は便利だ」ということで働かされていたのかも知れませんが(笑)。
そうすると、会社の経理部や人事部から、「志賀の帰宅のタクシー代は過去に例がない額だ」「志賀の残業代は大幅に基準を超えている」などというクレームが入るようになりましてね。日本の企業では、一人だけ飛びぬけてメチャクチャな働き方をしていると浮いてしまうんだなぁ、ということがわかりました(笑)。
そういうことがあって、仕事のやり方や限界みたいなものも見えてきたので、新しい刺激や目標を見つけようと、4年間勤務したその会社を退社して転職することに決めました。個人的には、「人間らしい生活もしてみるか」という思いもありましたけどね(笑)。
――転職先は、マイクロソフトの日本支社だったとか。
志賀 英語とプログラミング、その両方ができるというのが評価されたようでした。ただ、何せあのマイクロソフトですからね。「ビル・ゲイツに会えるかも」というミーハーな期待感もあったように思います(笑)。後年私は、ビル・ゲイツに対して、直接企画のプレゼンをするようになりましたから、その希望は実現したとも言えますね。
――マイクロソフト社では、最初、プログラマー、SEとして勤務していたのが、後に自ら望んでマーケティングの部署への異動を申し出たそうですね。
志賀 私がマイクロソフトに入社した当初は、本社から、「日本独自の技術・製品開発をしてよろしい」と認められていたんですが、次第に本社の方針が、「日本支社オリジナルの開発はそこそこでいい」「基本はアメリカ本社で開発した製品を日本語に移植したものを作れ」という風に変わってきたんですよ。
開発作業自体も、オリジナルソフトの開発から、本社の開発した製品の英語をわかりやすい日本語に翻訳するというものに変わってきまして。仕事の自由度や創造性、クリエイティブな部分が、大幅に減らされるようになってきたわけです。
そんな気配が流れてきたときに、ふと社内を見回してみると、マーケティングの部署というのは、"日本支社流オリジナル"というのがまだかなり許されていて、それが社内でイキイキと機能しているのがわかったんです。傍から見ると、非常にイキイキと楽しそうに仕事をしていたように見えたんですね。私は元来、"人がイキイキ動く"という姿に弱いもので(笑)それで、ああ、翻訳型プログラムの仕事を続けるよりもこっちのほうが面白そうだなぁ、自分がイキイキ働けるなぁと思って、志願して異動させてもらったわけです。
"ガイシ系"で味わう空気は、
日本の企業よりも○○だった!?
――マーケティング部での仕事はどんなものでしたか?
志賀 マイクロソフトの新製品、それの宣伝戦略や店頭などのセールスプロモーション展開。そういったものですね。「この製品はどんな状態で店頭に並ぶと最も効果的か」という視点や考え方は、この時期に養われた部分が多いと思います。
それまでは、コンピュータープログラムという職人的な色の濃い、ある意味で狭い視野の中で仕事をしていたわけですが、このマーケティングの仕事に移ったことで、視野が一気に広がりましたね。というか、広げざるを得なかったわけです。
開発された製品はすでにアメリカ本土で売れているわけで、それを「日本でもアメリカ並みに売れるようにせよ」というのが本社中枢からマーケティング部門に下される至上命題だったわけです。
そこには、「アメリカのマーケットで売れていることが製品の信頼性の高さや確かさの証明だから、日本でも的確に宣伝展開すれば必ず売れるはず」という大前提がありました。つまり、「売れて当たり前。売れなければ日本のマーケティング戦略が誤っている」ということですね。そういうシビアさはありましたが、だからこそやり甲斐も感じましたね。
――マイクロソフトは、その前に在籍していた日本企業と比べて、どんな違いが感じられましたか?
志賀 "開いている"というところですかね。日本の会社の場合は、たとえば新しいプロジェクトを立ち上げたとき、「これを我が部署、我がチームの手柄にするぞ」という意識が働くことが多いですよね。それはそれで意志一致、意志統一、団結力や求心力を高めるために効果的だとも思いますが、一方で、秘密主義や、あるいは「これはオレたちのものだから他の人間には触らせない」というような囲い込み、独占主義。そういうものが起きる土壌にもなりやすいとも思います。
――もう少し具体的に言うと?
志賀 たとえば新たな企画をスタートさせようとするとき、日本だと、ちょっとした社内の人脈や、先輩後輩が集まったりして、「こういうプロジェクトを計画中なんだ」「仲間であるお前もぜひ参加してくれ」といったように、いわば軽く<秘密会議>のようなものや、志を同じにする者たちの<決起集会>みたいなものを開いたりするじゃないですか。
――ありがちですね(笑)。
志賀 それに対してマイクロソフトのやり方というのは、定例的にみんなが集まる会議の場で、「今僕はこんないい企画を考えている」「だけどこれは僕一人ではできないし予算も取りづらい」「ついては誰か僕の企画に乗ってくれる人はいない?」と、まるで遊び仲間を募集するような、非常にオープンな中で、プロジェクトチームの編成が行なわれるわけです。
もちろんアメリカにも、「実績を残したい」「お手柄を作りたい」という意識はありますし、それは日本の社員より強いと思いますが、彼らの基本的な考え方というのは、「そのプロジェクトを成功させることが大切なのであって、そこに至るプロセスについてはあまり形式を問わない」という感じなんですね。
「お前とは別に親しい友達でもないし、先輩後輩でもないけど、その企画に協力してスタッフになるとオレもいい目が見れそうだから、今回はお前の企画に乗るよ」という感じですかね。それは、スタッフでもラインでも一緒です。「大事なのは結果」「一回限りの臨時スタッフでいいからうまいことやってサクセスしちゃおうぜ」ということでまとまりやすいんですね。
――そういったところが、志賀さんが感じた日本とアメリカの流儀の違いでしたか?
志賀 私にはそう思えましたね。私の好みで言えば、圧倒的にアメリカ型のほうが馴染みやすかったですね。「そういうのが一番だよねぇ!」と素直に同意できると言いますか。もともと日本型の派閥主義というか、各部署で固まって行動するような形は、こういうのはオレには絶対に合わないだろうなぁ、と思っていましたからね(笑)。
黒船・マイクロソフトの船長、
"ビル・ゲイツ提督"はどんな男か!?
――ビル・ゲイツに直接プレゼンしたというのもその時期のことですか?
志賀 そうですね。直接プレと言っても、そのためにわざわざアメリカに行ったりするわけじゃなくて、彼が来日したときに、日本で進行中の新しいプロジェクトに関するプレゼンや経過報告などを一気にまとめて受ける、という感じです。
来日のスケジュールが決まると、各部署のプレゼン担当者が集められて、「当日、ビル・ゲイツが日本支社に滞在するのは○時から○時の2時間だけ」「その間にプレゼンを済ませよ」「プレゼンの持ち時間は各部署30分まで」といった指令が下って、それに応じてプレゼン用の資料の作成に着手する、という感じでした。
――ビル・ゲイツへの直接プレゼンは、やはりいつもより緊張するものですか?
志賀 もちろん緊張もしますが、彼に短時間で効果的かつ印象的にアピールするために、各担当者がそれぞれにプレゼンの仕方を工夫する、という感じでしたね。プレゼンは通訳を入れずに英語でやりますから、わかりやすい英語で説明するのは大前提で、そこにどう自分なりのオリジナルな味付けをできるか、というのがポイントになります。
私の場合は、写真や映像を取り込んだプレゼン用のビデオを作成して、それをテレビモニターに映しながらのプレゼンという方法を取りました。たとえば、実際の店頭に商品を置いて、同僚に頼んで、「その製品に興味を持って立ち止まって手に取っているお客さん」という役をやってもらった映像、写真や図表。そういったものをビデオで撮影して、それを自分で編集したものを流しました。
当時はまだ、手元に企画書を渡して、図表を拡大したパネルを立てて説明するようなものが一般的だったので、そういう手法でプレゼンテーションをしました。
――ビル・ゲイツの反応はどうでした?
志賀 まあ、可もなく不可もなく、という感じですかね。事前に"伝説"のように聞いていた話では、プレゼンをしている最中に、途中でテーブルの上に置いてあった灰皿を投げつけられた取締役もいたらしいですからね。
――灰皿ですか!? 重いガラスの灰皿が当たると病院送りになりそうですね(笑)。
志賀 多分、「お前は何もわかっていない!」ということだったんでしょうね。まあ、私の場合、物を投げつけられなかっただけマシだったかもしれませんね。
――そういうエピソードがあるくらいですから、プレゼンを受けるビル・ゲイツというのは、プレゼンする側を緊張させたり威圧するようなシビアな空気を発しているものなんですか?
志賀 たしかに緊張はしましたが、緊張感はこちらが勝手に持つもので、彼からそういう緊張を強いるような気配が出るようなことはなかったですね。ただ、とても面白いと思ったのが、彼がプレゼンを受けているときの、彼の"体の動き"なんですよ。
――"体の動き"というのは?
志賀 彼はイスに浅く腰掛けながらプレゼンを受けるんですが、担当者が始めたプレゼンを聞きながら、それが納得できるもの、うなずけるものだったときには、彼はイスに浅く腰掛けながら、こうやってユラユラと前後に体を揺らしているんですよ。そう、ちょうどロッキング・チェアーに座って揺らしているような、そういう感じですね。
それが、プレゼンの内容に自分でちょっと納得できなかったときや、「あまり聞き慣れない言葉や考えだ」と彼が思ったときには、その動きがピタッと止まるんです。それまでイスの上で揺れていた体がきれいに静止するんです。自分でプレゼンをしながら、そういう法則性というか、スタイルがあることに気づきましたね。彼の体の動きを見ていれば、「今ビル・ゲイツは『おや?』『それはどういうこと?』と思ったぞ」というのが明らかに見て取れるようになりました。
――まるで珍しい動物を見るような視線ですね(笑)。ビル・ゲイツのその動きはどういうことなんでしょうね。
志賀 おそらく彼の場合、人の話を聞く際の思考方法や整理の仕方というのが、体の動きのリズムに反映されるんでしょうね。入力された情報が彼の脳内で納得して整理されると、体がユラユラと前後に動き続ける。それが何かの理由で脳内の整理の手続きが滞ると、ユラユラの動きもピタッと止まる。そういう方法が彼にとって最も効率のよい情報入力と整理の仕方なんだろうと思いますね。
ビジネスからエンターテイメントへ。
マーケッターからプロデューサーへ。
――そのマイクロソフトも退社して、次はゲームソフト制作の最大手、スクウェア・エニックスに転職しますね。
志賀 もともとゲームが大好きで、小学生の頃にはインベーダーゲームにハマって、ゲーセンに通って、インベーダーゲーム機の上に百円球を積んでいた子供でしたからね(笑)。任天堂のファミコンが登場したのが15、6歳の頃で、もろに家庭用ゲームの洗礼を受けた世代です。そういうこともあって、「ゲームソフト業界に染まってみたい」という気持ちがあったんですね。
――ゲームデザインやプログラマーとしてですか?
志賀 いえ、そうではなく、ゲームのプロデューサーとしてですね。マイクロソフトにいたときも、すでにプログラムの現場は離れて、マーケにいましたから、「広い視野で全体を俯瞰する立場にいたい」というつもりで、クリエーターではなく、プロデューサーを希望したわけです。
――つまり、クリエーターたちを統括する側ということですね。
志賀 "統括"という言葉はカッコよすぎますね(笑)。統括というより、「クリエーターを動かすためのあらゆる雑用全般」じゃないでしょうか。
私が入った当時のスクウェア・エニックスというのは、ゲーム業界ではもはや最大手で、その制作費の総額というのは、ハリウッド映画の予算に匹敵するようなものになっていたんです。『ファイナル・ファンタジー』のスクウェアと、『ドラゴン・クエスト』のエニックスが合併したというのも、その裏には、「合併して会社の規模を大きくしないと大きくなりすぎた制作予算が捻出できない」という事情があったようですしね。
ゲームソフトの開発期間が、3~4年と長期化する傾向になってきましたよね。すると、そのソフトを発売して、資金回収の段階になるまでに、お互いのキャッシュ・フロー、つまり資金繰りがもたなくなった、というのが本音じゃないですかね。
――なるほど。ゲーム制作の流れというのは、どのようになっていたんですか?
志賀 これはスクウェア・エニックスという会社に特長的なことかも知れませんが、二つの会社が合併したんだけど、ゲーム作りにおいては、「ひとつの会社の中にふたつの会社がある」という感じでしたね。
――FFチームとドラクエチームとが社内で対立していた?
志賀 いえいえ、そうではなくて(笑)。FFもドラクエも、あれほど売れたシリーズでしたから、ゲームを作るスタイルというのがそれぞれ完全に確立していたんですよ。だもので、「合併したから向こうのチームのあのやり方をウチにも取り入れよう」ということが一切なくて、「合併しようが関係ない。向こうは向こう、こっちはこっちのやり方でやる」ということなんです。
合併前の両社の首脳陣には、「FFとドラクエのいいところを相互交流させる」というところにはメリットは置いていなかった、ということなんでしょうね。
プロデューサーとは雑用係か?
「待つこと」を会得した時代。
――志賀さんが、スクウェア・エニックスで実際に手掛けられたゲームソフトはどういったものでしたか?
志賀 家庭用ゲーム機向けでも、アーケードゲーム機向けでもなく、ケータイ用のゲームソフトでした。今でこそ広がっていますが、当時まだそれほど普及していなくて、そういう分野の開拓ということですね。
――先ほど、「ゲームのプロデューサーは雑用全般」とおっしゃいましたが、具体的にはどういった雑用なんでしょうか。
志賀 あらゆる雑用です(笑)。ゲームソフト制作会社というのは、とにかくクリエーターの存在がすべてであり、それが何よりも最優先されていて、それ以外のスタッフは、彼らが動き出すのを待たなければならないということを宿命的に背負わされているんです。プロデューサーはその代表格、ということですね。
――「待つ」とは、何を待つわけですか?
志賀 たとえばゲームデザイナーが、次に出そうとしているソフトの世界観や骨格、そういったアイデアがまとまることを「待つ」わけです。
クリエーターは、スクエアエニクスの社員でありながら、なんといいますか、"先生"のような扱いなんですよ(笑)。「とにかく"先生"にプランをまとめてもらわなければ」「とにかく"先生"にキャラクターを描いてもらわなければ」という空気なわけです。つまり「待つ」というのは、「先生方がやる気になってくれるのを待つ」ということですね。
――社外の大物クリエーターだけが"先生扱い"されると思っていましたが、そうではないんですね。
志賀 ゲームソフトというのは、営業力やマーケティング力ではなく、ゲームデザインやキャラクター、プログラムの力で売れてきたものですから、ソフト開発会社では、"クリエーターの意志"というのが何よりも最優先されるんですね。それは、ある意味で正しい判断だと思います。日本のソフト会社が世界のゲーム市場を牽引していた背景にあるのは、そういった"超職人たちの匠の技"であるのは間違いありませんからね。
――そういった"先生クリエーター"たちのプランが上がるのを待つのがゲームプロデューサーの役割、ということなんですね。
志賀 そうです。ドラクエ、FFクラスの大ヒットシリーズになると、新製品が作られるペースは、3~4年に一作ですよね。パート2が出て予定通り売れたとして、4年後にパート3を発売する予定でいたとしますよね。じゃあ、パート2が出てすぐにパート3の制作に着手するかというと、そうではないんですよ。極端な言い方をすると、最初の3年半は何もしないで、いよいよ発売時期が迫ってきた最後の半年間で一気に制作する、ということがよくあるんです。
――そのほうがクリエーターにとって効率がいいからですか?
志賀 どうなんでしょうね。私はゲームクリエーターではなかったのでそれはわかりませんが、「『締切り』がなければ世の中は動かない」という冗談のような言い方がありますよね。もしかするとゲームクリエーターたちも、「締切り日が見えてきて追い詰められないとやる気が出ない」ということなのかも知れないですね(笑)。
――そういう仕事の進め方というのには、面食らった部分もあったんじゃないですか?
志賀 そうですね。前の職場がゲーム畑ではない会社で、さらに外資系の合理主義が徹底されていたような会社から転職してきた私の目には、「これじゃあまったく何も進んでないんじゃないの?」という風に最初は感じられました。
でも、ゲーム制作の現場では、"作品の空気感を共有する"ということがものすごく大切で、そこに大きな時間を割いているんだな、ということが次第にわかってきましてね。
メンバーの間で、作品の持つ<空気感>が共有されるようになると、もう、文字通り、寝る間も惜しんで仕事をするようになりますからね。その辺は見ものでしたね(笑)。やはり、ゲーム作りの名人や職人たちの集まりなんだなぁ、と思わされました。
私自身は、大作は担当していませんでしたから、わりと傍観者的な立場でいましたが、ドラクエ、FFのプロデューサーたちにとっては、「完成はまだなのか」とせっつく経営サイドから制作チームのスタンスを守るというのは、半端な努力ではできないだろうと思いますね。
空気を読みつつ俯瞰する。
プロデューサーは<我慢>が命。
――傍からは「何も進んでいないんじゃないの?」と見える3年半の間、クリエーターたちは何をやって、どうやって過ごしているものなんですか?
志賀 それぞれで違うと思いますが、私が知っている範囲では、たとえばクリエーターのトップだけで、海外の南の島などに長期滞在して、現実世界と遮断されたような場所に身を置くことで、新たなアイデアが見えることもあるでしょうね。それ以外では、旅に出たり、映画を見たり、小説を読んだり、あるいはゲームをしたり(笑)。そんなところじゃないかなぁ、と思いますね。
制作の追い込み時期になると、社内の各部門の担当者が、トップクリエーターと打ち合わせするために本当に行列を作りますからね。キャラクターデザインのチェックから、プロモーション戦略の確認に至るまで、あらゆる担当者が承認をもらいに行くわけです。
それで、「○日にあのクリエーターが出社してくるらしい」という情報が流れると、社内各部門の担当者が列をなして、チェックを受けるんですね。
――まるでビル・ゲイツにプレゼンするように(笑)。
志賀 本当にそんな感じです。ビル・ゲイツの場合は、「○日に来日して、○日には必ず来社する」とスケジュールがはっきりしていますが、売れっ子クリエーターの場合だと、「一日待っていたけど結局出社して来なかった」ということもよくありましたから、来る来ないの影響の大きさというのはビル・ゲイツ以上かもしれないですね(笑)。
そして、そういった"行列"の整理をするのもまたプロデューサーの仕事なんですね。つまり、「ゲームを制作する上で発生する、あらゆる折衝・交渉・進行役」ということですね。先ほど「プロデューサーとは雑用」と言ったのはそういうことです。
制作スケジュールは守らなくてはならない。かといって、クリエーターにヘソを曲げられてはまずいから、そんなにせっつくわけにも行かない。全体の流れを把握しながら、細部にも目を向ける。クリエーターの心の調子が良くないようだったら、信頼できる心療内科を紹介するとか、そういったことすら仕事の範疇になりますからね(笑)。
――ということは、ゲームのプロデューサーをやると、かなりストレスが掛かるものなんじゃないですか?
志賀 そうだと思いますね。自嘲気味に、「何度か胃潰瘍にならなければ一人前のプロデューサーとは言えない」と言ったりしますが、冗談ではなく、プロデューサーは本当に体を壊しますね(笑)。自分が主体となって動けるわけではなく、クリエーターたちの意向が最優先される中で、いかに上手に彼らを"その気"にさせるか。それがプロデューサーに与えられた至上命題ですからね。どんな仕事でも、どんな業界でも、"調整役"の人が疲弊するのは仕方がないのかも知れませんね。
――ご自分が経験した『プロデューサー』という職種を総括すると...。
志賀 その集団に与えられた仕事や任務。その目標を絶対にぶれさせない、ということでしょうか。集団の中では、常に各人のワガママが渦巻いています。その交錯しまくっているワガママを、認めてあげたり、あるいは「そのワガママはちょっと認められないなぁ」といった具合に懐柔する。そういうことの繰り返しだろうと思います。
あえて抽象的な表現をすると、プロデューサーとは「空気を調整する役」なんだろうなと思いますね。どの辺の空気が重いか、暗いか。イビツになっているところはないか。そういう気配をいち早く察する。読むのは空気で、目で見えるものではないから、"感じる"しかないんですね。
集団の中では、「対立」というのはしょっちゅうあります。ただ、対立がすべて悪いかというとそんなことはなくて、言い方が難しいんですが、「必要ないい対立」というのもあるんですよ。「これはゲームのクォリティを上げるためにはいい対立だな」というのが。そういう場合は、その対立をあえて放っておく場合もあります。もちろん最終的には対立を超えて、どこかで融和させないといけないですけどね。
――そう聞くと、プロデューサーというのはかなりツライ仕事ですね。
志賀 私が言ったことがすべてではないと思いますが、こんな仕事の仕方を聞けば、たいていの人は、「やりたくない」と言うでしょうね(笑)。その言い方をすれば、「みんながやりたがらないことをやるのがプロデューサー」ということかも知れません。
プロデューサーの適性ということで言うと、
「常に客観性を持って物事を俯瞰的に見ることができて、我慢強い人」ということですかね。もし皆さんの中で、「ゲームプロデューサーになりたい」という希望を持つお子さんがいらっしゃったら、そういうことを伝えてあげるといいんじゃないかと思います。これについては、ゲーム業界に限らず、どんな業種でも一緒じゃないかとも思いますね。
そういう仕事をやる中で、私も体を壊しそうになりまして(笑)。それで、ああ、ゲームプロデューサーの仕事はだいたいわかったからそろそろいいかなと思って、スクエアエニクスを退社して、今の会社を起業して、コンサルタントとして独立するわけです。
プロデューサーからコンサルタントへ。
五感を駆使して<空気>をつかめ。
――それまでのプロデューサーという仕事と、現在のコンサルタントという仕事は、似ているものですか?
志賀 似ている部分とそうでない部分があると思います。「常に俯瞰して客観視する立場」
というのは共通する部分です。コンサルタントも、依頼主=クライアントのことをどれくらい俯瞰して客観視できるかというのは、常に堅持すべきことだと思いますからね。クライアントの社長さんと一緒になって、迷路に迷い込んではマズイわけです(笑)。
それと、「ワガママの調整役」というのも似ているかも知れませんね。「この商品をこのように爆発的に売れるようにしてくれ」というのは、ある意味クライアントさんのワガママですよね(笑)。それに対して、「そこまで望むとすればこんな期間と経費が必要になりますよ」「その層にまで売りたいというのはいかがなものでしょう」という風に、調整しながらプランを考えて行くわけですから。
しかしコンサルタントは、ゲームプロデューサーのように、「待つ」という必要はないですね。常にプランを考えるのは自分自身であって、誰かの意志や判断を待つ立場ではないですからね。待つものがあるとすれば、そのコンサルティングを行なって、それに対する売上げや評判というレスポンス、そういう"結果"を待つことにはなりますが。
そういう意味ではコンサルタントは、調整をするプロデューサー的側面と、プランを作り出すクリエーター的側面と、その両方が混在しているような気がします。
――志賀さんの場合は、依頼を受けてから、どのような仕事の進め方をするんですか?
志賀 一番最初の打ち合わせ、ミーティングの際の場所は、私は必ず、「その依頼人の場所」でやるようにしています。クライアントさんの会社や店舗、そういう場所ですね。ホテルのラウンジや会議室で、と言われる場合もありますが、私は「できれば御社に伺いたいのですが」と言ってやんわりお断りしています。というのも、その会社の空気、その経営者の方がいつも吸っている空気。それを一緒に吸うことが、最初の段階では非常に重要だと思っているからなんです。
会社、店舗、社長室、応接室、会議室...。通された「依頼人の場所」には、必ず特有の、独特の空気が漂っています。どんなにキレイに整っている場所でも、その経営者の方の思想、体温、匂いというのが漂っているものなんです。それを嗅ぎわけるために、私は先方の会社に伺うわけです。それが私にとって、仕事の初期段階でのきわめて重要なリサーチになるわけですね。
――そこでは、「客観性のある視点で俯瞰して見る」という姿勢でいるわけですね。
志賀 そういうことですね。そして、その社長室や会議室で、当該商品だけでなく、先方社長さんの思想、経営哲学、家族関係、友人関係、趣味、それまでの経歴に至るまで、できるだけ細部にわたってお聞きするようにしています。その際の社長さんの目つき、顔つき、話し方、言葉の選び方にも気を払います。社内の空気を感じて、その匂いを嗅ぎわけることから始まって、視覚、聴覚などの五感を駆使して情報収集するわけです。
――そうするのはコンサルタントとして大切なことですか?
志賀 他のコンサルタントの方のことはよくわかりませんが、私個人で言えば、大変重要なことですね。伝え聞くところでは、最近の大手のコンサルティング会社の人たちは、「御社の商品の昨今のマーケット事情はこうなっています」という、細密なマーケット分析レポートから始める人が多いそうですが、私の場合はそうではないですね。一にも二にもまず現場。先方の会社の空気を感じること。すべてはそこから始まりますね。
空想せよ。妄想を企てよ。
イメージする<絵>が扉を開ける。
――現場の空気を感じ、社長のキャラクターもある程度把握した後は、肝心なコンサルティングのプランニングが始まるわけですが、そのプロセスはどういうものですか?
志賀 たとえば、ある製品の効果的なプロモーション戦略を考えるのが私に与えられた任務だったとしましょうか。私がどういう思考プロセスで考え始めるかというと、その製品が存在する<絵>を思い浮かべるんです。
――絵、ですか。
志賀 写真というか、映像というか、その製品が日常の中にある絵や風景、ですね。
その製品を購入した消費者の生活がどのように利便性が上がるか。どんな風に豊かになったりするのか。その製品が店頭に並ぶときには、どういう店のどの辺りの棚にどんな風に陳列されるか――。店頭での絵や風景もあれば、その製品が使われている室内のときもありますね。
さらにその絵には会話も入ってきます。OLだとすれば、彼女が会社に行って、ロッカールームやトイレでその製品のことを話している会話。奥さんだとしたら、公園で子供を遊ばせているときに、その製品について奥さん同士でおしゃべりしている会話。サラリーマンなら、電車で帰宅する車内で吊革につかまりながら同僚同士でしている会話。彼が家に帰ってから奥さんにその製品のことを伝えている会話――。そういうものですね。
さらに言えば、会話をしている人たちは、どんな雑誌を見ながら、どんなテレビを見て、どんな服装をしているか。何を食べて、どんな休日の過ごし方をしているか。会社や学校に電車で通っているとすれば、それは何線か。通う会社や学校の規模や雰囲気はどんな感じか。どの辺にあってどんな制服なのか――。
そういったことを、次々と自分のイメージの中で思い浮かべるんです。大げさに言えば、「その製品が生活の各シーンに現われることで個人の生活や世界観にどのような変化が訪れるのか」ということを、徹底的にビジュアルで思い浮かべるわけです。
――絵的、映像的なイメージということですか?
志賀 イメージと言うとカッコいいですけど、私の空想や妄想ですね(笑)。クライアントや自分にとって、ある種、理想的な空想であり、望むべき妄想ですね。そういうものを、できるだけリアルに思い浮かべるわけです。
――電車の路線や会社のOLの制服まで思い浮かべるんですから、それはかなりリアルですね(笑)。
志賀 そこまでリアルにイメージしないと、その行為は意味がないんですよね。そして、細部にわたるリアルな絵が見えれば見えるほど、写真や映像の数が多ければ多いほど、その製品のプロモーションの仕方がより鮮明に浮かび上がってくるんです。
こういう人たちが、こんなシチュエーションで、こんな会話をしながらこの製品を使っている。だとすると、この製品が並ぶべき店頭の棚はこの辺りで、こういうPOPで演出されて、そのマーケティングのメッセージはこんな感じで...というのが、それらのイメージに引き摺られるように出てくるんです。
――そういう<絵>は、「見なきゃ、見なきゃ」と思って見えるものですか?
志賀 「見なきゃ」というよりは、その製品のことを思っているうちに絵が降りてくる、という感じですかね。パソコンの前で企画書を打ちながら考えて...というやり方だと、私の場合はロクなアイデアが出てこないですね(笑)。外をブラブラ歩いていたりしたときに、ふと、「その製品のある日常の映像」のイメージやインスピレーションが湧いてきて、「ああ、なるほど、そういうことか」と思って、それで家に帰って、一気に企画書を書き上げることが多いですね。
――その<絵>の中に登場するのは、自分や家族、知人ですか?
志賀 いや、違います。そこに自分の姿は浮かばないし、家族や知人でもない。製品を使っているのは、必ず"見知らぬ人"です。「こういう製品なら使うのはこういう人じゃないか」という風に私が作り上げた架空の人物たちです。
その製品と私との相性が良ければ良いほど、そういう絵が次々と浮かんでくるし、浮かんでしまえば、だいたい成功というか、クライアントさんから評価していただけるものになっています。プレゼンする際にも、こちらはすでに絵や映像が脳内でできあがっていますから、「こういう風な展開がベストだと思う」と言い切れるんですよね。一般的には根拠がないようなものでも、私にはたくさんの根拠があるわけです(笑)。
データからは未来は見えない。
成功を呼ぶのは<感情>だ。
――通常のコンサルティングでは、プレゼンを信用させる根拠を市場のデータに依拠するものですよね。それが志賀さんの場合は、思い浮かんだ絵が根拠になる。
志賀 マーケットリサーチでデータを集めて、そこから企画を考えようとすれば、それはかなりの確率で失敗になることが多いんですよ。私はそう思っています。なぜなら、マーケットリサーチで出てきたデータというのは、"時代の結果"でしかありませんから。次の時代、次の顧客を求めようとしているときに、過去のデータに頼るだけでは決していい成果は上がらないと思います。
ここにおられる皆さんの中にも、かつて企業コンサルティングを受けた際に、「マーケットの傾向はこうなっています」「それに則して言うと次の時代の流通はこうなります」という形で薦められたプランはたくさんあったと思いますが、それは果たしていい結果をもたらしたでしょうか。少なくとも、私がこれまで見聞きし、経験した範囲では、そういうプロセスを経て考えられたプランというのは、「こういう風に考えれば安全だ」というものでしかないと思いますね。
――マーケットデータ重視型プランでの成功は難しいと?
志賀 私がデータを使うのは、「私のひとりよがりの考えではなく、実際の世間もこんな風に動いてますよ」という風に、自分が掴んだイメージに説得力を持たようとする場合に限り、です(笑)。一般的なコンサルタントとは、データへのアプローチが正反対ですけどね。
――お聞きした志賀さんのやり方は、"直観力型コンサルティング"と言ってもいいと思いますが、その直観的アイデアの源泉になるものは何ですか?
志賀 やや語弊があるので、誤解を恐れずに言ってしまうと、自分自身の<感情>だと思います。もっと砕いて言うと、「好きか嫌いか」でしょうね。クライアントの社長さんやその製品、その会社の空気などを自分が好きになれるかどうか。経験則的に振り返ってみると、その部分がとても重要だったように思います。好きだからこそ、空想の絵、理想の絵も思い浮かんでくると思いますしね。
――一般的には、「ビジネスに感情は入れるべきではない」と言われていますが、それとは真逆な考え方ですね。
志賀 私がそう思うのは、「好き・嫌いの感情こそ、個人の創造性、クリエイティビティの源泉になるもの」と考えているからです。少なくとも私の場合は、好きになるからアイデアが湧いてくるんです。だから私は、クライアントの社長さん、その製品、会社の空気を感じ取って、それが好きになれないものだった場合は依頼をお断りすることもあります。もちろん、「好きになれないから今回のご依頼は受けません」とは言いませんけどね(笑)。
大手のコンサルティング会社だと、コンサルタント個人の感情が入る余地はないし、許されないものなんでしょうが、私のように個人でやっているコンサルタントにはそれが許されるわけです。
それは、私が私情を優先させて仕事をするタチなのではなくて、「この製品や会社、この社長さんが好き」と感じること、そういう感情こそが、その仕事やミッションを成功させる大きなカギになるからなんです。
――前半で、プロデューサーとクリエーターの違いについてお聞きしましたが、「感情を大切にして仕事をする」というところは、志賀さんの中にあるクリエーター的な側面が出ているようにも感じました。
志賀 どうなんでしょうね。ただ私個人としては、コンサルタントには、プロデューサー的側面と、クリエーター的側面、その両方があるべきとは思いますね。製品を売るということは、新たな市場を創造=クリエートすることだと思いますから。
――クライアントに<愛>を感じられるかどうか――。そこが志賀さんのコンサルティングの独特なところであり、また依頼を成功させる秘訣というわけですね。
志賀 もし皆さんにエラそうに聞こえていたときのために、あらかじめお詫びしておきます。どうもすいませんでした(笑)。
――今日は長時間ありがとうございました。
志賀 いえいえ。こちらこそ私のくだらないお話に最後までおつきあいいただいて、本当にありがとうございました。